西近江路 【6日目】

2015年7月26日

マキノ駅(海津)~敦賀駅
西近江路いよいよ最終日となる、朝早く自宅を出て電車を乗り継ぎ湖西線マキノ駅へ。
駅から前回の起点西浜まで移動してスタート。

今日は国道161号線と重複する道が多かったが、思っていた以上に日曜日だったからなのか、車が少なかったので助かった、でも長い変化のない上り下りの道はしんどかった。
前回の12月30日から少し日が経て、今回真夏の7月26日暑そうだが頑張ろう。
      湖西線マキノ駅  8時30分 スタート、
     海津を少し見学に時間を割いたので、
         敦賀駅  7時10分 完歩
           46.924歩  28.15㎞

マキノ駅

海津大崎の遠望

 石積みの残る湖岸を進む

前回の合流地点、ここよりスタート
石垣が築かれたのは、元禄期(1688~1704)のことで、長さ272間(約495m)基部幅9尺(約2.7m)高踏幅6尺(約1.8m)高さ9尺であった。

海津宿
海津宿で琵琶湖とも別れる、越前の国山中宿まで焼く10㎞。続いて疋田宿、最終地点の敦賀まで(七里半 29.5㎞)あったことから七里半街道とも呼ばれた

100m程進んだ左一筋奥に 浄土真宗東光山萬明寺

右に 旧港跡の石積み

 街道左に 真宗連光寺

西与一左衛門の碑
元禄十四年(1701)赴任した代官西与一左衛門は、風波のたび被害にあう地域を哀れんで、幕府の許可を得て元禄十六年(1703)湖岸波除石垣を東浜668m、西浜494mに渡って築き、この石積みにより水害が無くなった。他にも仁政を行い、後世村人たちが、その業績をたたえ碑を建立し、今も毎年3月15日、蓮光寺で西代官の法会がい営まれている

蓮光寺前の街道

 東隣に 真宗西栄寺

北側には 青光院

街道に戻り少し進むと川の手前左に 真宗宝珠山誓行寺

蓮光寺の前から西浜の静かな石積みの湖岸の街並みを振り返る

すぐ小さな川に架かる橋を渡ります。左にカーブして直ぐ又右に折れます、橋を渡った右に魚末商店があり、マキノ町海津地区に入ります

橋を渡りすぐ右にカーブしますが【寄り道】で川に沿って真っ直ぐ350mほど、湖西線の手前まで歩くと
海津天神社
建久二年(1191)の勧請で学問の神様。境内には、恵比寿神社、貴船神社、国狭槌神社など大小十棟の社が鎮まり、荘重なたたずまいをみせている。その後、元亀二年(1571)の兵火で消失したが、再建され現在に至る。当社には、平安末期の紙本墨書法華経10巻(重文)や狩野山楽筆板絵暑著色絵馬(県文)、長谷川左近筆の板絵著色36歌仙扁額などの神宝が保存されている。

街並み沿い左に 真宗福善寺

すぐ右に 海津迎賓館

左側には 宗正寺と宝幢院への案内

【寄り道】のため迎賓館の向かいの案内表示を左に300m入ります161号線を横断してさらに湖西線の手前まで歩く

真言宗 宗正寺
本尊は十一面観音坐像、室町前期南北朝時代の作(国重文)。往古にはこの地に比丘尼御所があり尼宮の願いで一寺を建立したのが始まりと伝わる。海津城主海津政元の室(浅井長政の叔母・浅井亮政の娘)が入寺し尼になった。堂内には夫妻の位牌と、大坂夏の陣で自刃した饗庭局(浅井明政の娘)の位牌も安置している。境内には、海津政元夫妻の墓とも比丘尼の墓とも伝わるのが残るが逸してしまった。

宗正寺の東に山門が見えるのが 真言宗宝幢院
本尊は薬師如来坐像。天平二年(730)に仏地院という名で建立されたが、その後衰退したが、嘉吉二年(1442)再興され保護されてきた。
境内には本能寺の変(1582)で明智光秀についたとされ、丹羽長秀により誅殺された、若狭国の元守護武田元明の墓がある。元明の妻竜子は京極高次の妹で、後に豊臣秀吉の側室京極局(松の丸)で、大阪冬夏の陣に活躍した。
寺宝に、鎌倉・南北朝・室町期の五大明王像が5幅ある。山門は明治二十一年(1888)峯山の最勝寺から移築された。

武田元明の墓と従者 熊谷兄弟の墓

水上勉の書、「湖笛」で知られる悲運の武将、戦国時代を戦い抜きながら、信長が本能寺の変で最期を遂げた跡、妻竜子の美貌の横恋慕した秀吉により、この寺で光秀に味方したという嫌疑をかけられ自刃させられた、元明三十一歳の若さであった。
従者は、熊谷佐兵衛と平右衛門の兄弟でせめてものと戦い主君に殉じた。秀吉はこの後、竜子を側室にしている。戦国の世とはいえ秀吉嫌いの一つ。

海津迎賓館、かつての豪商 旧井花御殿と蔦が絡まっている年代を感じさせる土蔵

 左に鮒鮨の 「魚治」 の料理老舗 風格があります。私には手が出ない

魚治前に 栗柄越の碑(あわがらごえ)高島市~美浜町に抜ける険しい峠越えの山道で鯖街道の一つのルート

魚治の向かいは 旧海津港跡
開港は明らかでないが、平安末期の頃から海津港が発展し、大津に次いで大きな港となった。海津東浜は江戸時代には北陸と大津を結ぶ重要な港場で宿場町として大いに栄えた。
明治三年(1867)磯野源兵衛と井花伊兵衛らが共同で蒸気船を購入し、大津~海津間の航路を開いた。これが太湖汽船琵琶湖汽船の母体となった、その桟橋の杭のみ今に残している(説明文より)

港跡の入り口

湖岸に建つ民家の下の石垣、元禄期に築かれた波除けの海津の石積みで1.2㎞続く

そのすぐ先、左に酒米づくりにこだわる「竹生嶋」の銘、吉田酒造古い街並みに残る海津の蔵元

その先、左奥にマキノ東小学校が見えるところで橋を渡ります。その先左に 大日尊

高島市海津・西浜・知内の水辺景観(重要文化的景観)に指定されている

400年の歴史を持つしょうゆうの醸造元の中村商店の建物や素晴らしい、往時を彷彿させる街並みが静かに並ぶ

宿場の通りも東の端に近づきT字路となります

T字路より宿場の街並みを振り返る

T字路を右に行くと桜並木の名所、海津大崎へ

T字路右角に海津今津線と刻まれた 道標 このT字路にはかつて高札場が置かれていた

T字路の正面の細い道を上っていくと 浄土宗称名寺 本尊は阿弥陀如来、開基は天平年間(729~749)

途中に祀られている 

石段を上り左へ行くと、旧八幡神社の鳥居が建つ

その隣に 浄土宗知恩院派宮子山正行寺 文明十八年(1486)創建

境内に 加賀藩士松平大弐の灰塚や顕彰碑 がある。松平大弐は加賀藩の家老で、幕末の藩主前田慶寧の補佐をして京都御所の守護をしていたが禁門の変あと帰藩の途中その一切の責任をかぶりこの寺にて自刃して果てた。顕彰碑は海津村の人々により大正六年に建立された

T字路の街道に戻ります

T字路を左に折れた街道

宿内の街道左に お堂と綺麗な水の池 があり鯉が泳いでいます

一時の安らぎ

宿を東端で抜けます。右に 浄土真宗大谷派梅霊山願慶寺

教如上人御遺跡碑

織田信長との石山合戦に三浦衆(海津浦・今津浦・大浦の真宗門徒)を率いて参戦した。本尊は阿弥陀如来で、本堂は貞享四年(1687)に鐘楼や門は寛政十二年(1635)に再建された。梵鐘はマキノ町では最古のもので寛永十二年(1635)に造られた。江戸時代以前に伊香郡、敦賀市、マキノ町に二十数ヶ寺の末寺を持ち、江戸時代には加賀・越前の諸侯が上洛の際の宿舎としたほどの名刹であった。また境内には木曽義仲の愛妾であった山吹御前にゆかりのある一本の老紅梅 があります(説明文より)

お寺の前にも 祠と池
お寺の前で時刻は10時、少しゆっくり見て回ったので時間を取ったが、この先、敦賀まで少し速足で進まなければ。夏なので日が長いから大丈夫と思うが

車道はその先で左にカーブを描きますが、街道は、左にクリーニング店の看板のところで左の路地に入ります

左に入る旧道

小さな溝に沿って、畦道を進む

左の畦道に 

 田畑の中の街道は中の川に突当り、川に沿ってきた左からの道に合流して右にカーブします

合流して50m程で左からの161号線に合流します。右に折れると海津交差点

大津からの旧道は西近江路ですが、海津宿からこの先山中峠を越えて越前に入り、道口で旧道は分岐し、木ノ芽峠を越えて今庄宿のある北陸道までを西近江路としている資料もある。
また、道口からから敦賀に向かう道を、海津から七里半あったので七里半街道と呼ばれている。その間、小荒路・山中・駄口・追分・疋田の各宿場があった。

海津交差点で161号線の左側の旧道に入ります

緩やかな坂を上りながら快適な旧道を進みます

200m程先で右からの161号線に合流します

 100m弱161号線を進むと、再び左に入る旧道があります

旧道を入り少し先右墓地の傍に 清水(しょうず)の桜 マキノ町海津のアズマヒガンザクラ幹回り6.4m、樹高16m、推定樹齢300年以上

振り返ったところ

 緩やかな上りを山間に進んでいきます素晴らしい

左に湖西線が見えます

 旧道に沿って左に獣除けの金網が張られています。丁度湖西線のサンダーバードが走っている

やがて道は分岐しているので、右の旧道に入り右上の161号線に近づきます

右の旧道を上っていきます、右左と蛇行を繰り返します

長い登り坂ですが、気持ちがいいので疲れを感じさせない、7月の篤いのが忘れます

振り向くと琵琶湖が綺麗に見えます

再び分岐があります、右に坂を上ると161号線に接近するので、左の林に入ります。もちろんこの辺りには熊もいると思うので鈴を鳴らし・笛を吹きながら歩きます
歩いたのは2015年で11年前です。まだこの時分は今のように熊も狂暴化してなく、人の気配をしたら逃げたようですが。今の2026年ではとてもこの辺りは一人では歩けないでしょう。

林の中の旧道を進みますが、あまりに静かで少し心細いですが、木が低いのでまだ日が入り明るいので助かる

この辺り地下を湖西線の峯山トンネルが抜けています

先に分岐(161号線に接近した道)した道がこの先で右から合流するのです、まだもう少し先のよう。振り返ったところ

さらに100m程先、進んでいくと道が怪しくなってきました。雑草が茂っています

ほとんど道跡が無くなってきました、ここで道は完全に消失しています。かつては真っ直ぐ旧道は進んでいたと思われます

一瞬頭真っ白道がないし雑草に覆われています。右の上に自動車の音も微かにするし、161号線があるからと思う冬場なら未知の痕跡が判るのだが

ここで、今来た先の分岐点まで、戻らなければいけないのかと思いましたが、よく見ると右に鉄柵のある階段があります。雑草に覆われ隠れかかっているが右上の161号線に出ているようです。でも手入れをしなければ数年で完全に雑草に覆われてしまうでしょう。

階段のところまで行くのも背丈ほどの藪で大変です

階段にたどり着き藪を分けながら上りました

階段上から見たところです。熊や蛇が出なくてよかったと胸を撫でる。上から見てもぞっとする
旧道跡でないが、手前の分岐を右に上がり161号線に出るのが無難と思います

161号線に出て坂を上っていきます

 坂の途中右に、道の駅マキノ追坂峠があります

時間もないので道の駅を右に見て坂を上ると広い交差点に出ます。前述の消失した旧道は、真っ直ぐ左を進み、この辺り左に合流していたと想像します

この辺りはかつての 追坂峠 と思われる、今は峠の面影はありません。道の駅が過ぎたこの交差点を右に折れます。右に折れた旧道

右に折れて旧道を100m余り進むと、小さな川に架かる橋を渡ります。小荒路集落に入ります

右に小荒路郵便局があります

郵便局のすぐ先で右に入ると 真宗有乳山慈専寺

門前に 蓮如上人御遺跡碑

小荒路集会所を右に集落を進みます

集落内右に 曹洞宗大本山永平寺御直系華蔵山長善禅寺
大きな金色の観音像が立っています

静かな山里の小荒路の集落です

 左に 常夜灯

右に 地蔵尊を祀るお堂

上の山地区の集落に入ります

上の山集落内右に 名願寺

名願寺の前の静かな街道風景を振り返る

右に 

 やがて左からの161号線が合流します

161号線の左の側道を歩きます。野口交差点に出ます、交差点右への道は琵琶湖トンネルを抜けて303号線で塩津にでます。

野口交差点で右側に横断して、161号線のと303号線の間の旧道を北に、161号線と川を挟んで並行して進みます

旧道から野口交差点を振り返る

旧道を進みマキノ町野口の集落に入ります

野口集落の中左、左に草の根ハウス野口集会所がある前向かいを右に入ると 
真宗入葉山伝正寺

蓮如上人御休処の碑

街道すぐ先右に日吉神社の石碑と参道

日吉神社

野口の静かな街道を彷彿させる山里の街並み歩いていても快適です

右手に 剣熊の関所跡の石柱

関所前の街道

隣に 祠 国道沿いに獣除けの金網がされている

集落を抜けると知内川に架かる橋を渡ります

左から161号線が合流します。ここから国道を進みますが歩道がないので注意が必要、思っていたほど車が少ないので助かる

暫くは山間の国道を坦々と歩きます

右には知内川が沿います、道は緩やかに上っています

路原バス停を過ぎていきます

 左に 真宗大谷派呑花山本慶寺

道の駅より緩やかであるがずうと続く長い登り坂真直ぐな登り坂が延々と続いている今でこそ真直ぐな道ですが、昔は山の中を歩いている姿を想像するだけでも凄いことだったのだと思う

知内川が右から左に曲がり、国道の左側に出ます。その五ノ瀬橋を渡ります

 200m程先で、再び知内川が左から右に変わります、そこを渡る橋があります

さらに500m程上っていくと、左にカーブするところで、知内川は左に変わるので橋を渡ります。カーブしたすぐ先で、左に分岐する道があります、今津へ抜けますが、冬季期間は閉鎖になります

左に分岐していく道を振り返る在原口バス停があります民家もないし乗車する人がいるのかな

さらに進んでいくと、知内川が右に変わりますので橋を渡ります

さらに400m程先で知内川が左側に出て橋を渡ると西に離れていきます

国境バス停があります

バス停の傍右に 願力寺

数軒の民家があります

まもなく切り通しになっている 峠 を越えます。峠名がチョット判りませんが、かつては厳しい峠であったと想像できます

滋賀県高島市マキノ町から福井県敦賀市に入ります県境です、高島市も大変広い

国境付近から左に国境高原スノーパーク場が広がります

暫くはまた同じような道を下っていきます

左にスキー場・ゲレンデがみえます、昔のようにスキー人口もなく活気は少ないのだろう

街道右(東)側南へ、国道に沿って旧道跡らしき残骸が微かにありますが、雑草が茂っていて歩けません。冬ならわかるかも振り返ったところ

また右国道に沿って旧道が残っています

100m程歩いたところで広くなっていますが、その先は消失しています

国道に戻り先を下ります

暫くは緩やかな下り道の敦賀市山中地区を進みます

左看板のあるところで、左旧道に入る道があります。かつての 
山中宿跡 で、平安末期から「山中」という地名が出てきて、江戸期の享保十二年(1727)には46戸、200人近い人が住み 問屋も十軒程もあり、高札場、一里塚、番所、茶屋 があり賑わっていたようですが、今はその面影は見ることができない

旧道に入る 親鸞聖人有乳山遺蹟碑 が建っています

一軒トタン葺きの家があるが、多分住んでいないようです
宿場があったとは思えない程、時代の流れです

分岐は右の道を進む

かつての宿内の道だが、全くその痕跡がなく見事に様変わり

左に 親鸞聖人御旧蹟

右からの161号線に合流します。この間、今は150m余りです

合流点より100m程先左に、立派な大きめの祠に祀られている お地蔵さん

この先、何もなく車道を暫く下っていきます。山中地区の下り途中から五位川が沿うようになります。この辺りが源流なのだろうか

山中から駄口地区に入ります左手大木の袂に 駄口の一里塚碑

駄口の集落が見えてきました。小さな規模の 
駄口宿場 であったようです道は分岐していて、左の旧道を入ります江戸中期には 問屋1軒、茶屋・旅籠が1軒あったようで荷継ぎ場的な宿場の様でした

左に 日吉神社

少し行くと左に 清光寺

集落を進みます

300m程進むと右からの161号線に合流して宿場跡の駄口の集落を抜けます
住めば都かもわからないが、若い方は町に出て、やはりだんだんと過疎になっていくようです
車がなければ不便なことでしょう

更にしばらく下っていきますと左にドライブインしのはらがあります 

右下蛇行しながら国道に沿った五位川が流れています。また川に沿って道が沿っています、ヒョットしてかつての旧道が下を通っていたのか、わかりませんが想像します、厳しい道であったことには変わりありません。海津からのかつての旧道は山ばかりだった長い道のりでした。思っただけでも気持ちが遠くなる

国道を暫く進むと左に電機工場の少し先で右に入る道があるので、国道と分岐して右へ

右に入ります

右にはいいった道も舗装された道です、先で振り返る

右に折れた100m程先で左にカーブします。そこの角を右を見ると、消失した旧道の痕跡があります。
前述の国道右下、川沿いの道がここに出ていた旧道ではないだろうかと想像もする
左にカーブしたところをふり返ってみたところ面白いですねいろいろ想像して

左にカーブして旧道を進みます、右、林の下は五位川ですこの辺りは深坂地区です

追分地区に入ります、竹藪の間を進みます

竹藪を抜けると五位川に架かる橋を渡ります。橋を渡ると右からの道が合流してきます

右からのこの道は 深坂古道 といって敦賀と塩津を結ぶ歴史の古い道です。平安時代紫式部が父藤原為時と越前に赴任する時歩いた道であり、また平清盛が重盛にに命じて、深坂峠を改修して敦賀と琵琶湖を直結する運河を開削する壮大な計画をしたことでも知られている。(冬場に歩きました深坂古道を参照してください)

深坂の古道の道で正面やや左が深坂峠、峠の向こうは塩津街道(国道8号線)おじさんが畑仕事していて話したところで、熊が出るから注意してくださいとおしえていただいたところを思い出した。また谷川に滑り落ちたのと、初めての経験で足がコブラがえりしたところでした。

更に少し先から振りかえる

案内標識が立っています

追分集落に入ります
追分宿

集落の中ほど左に石段を上がると

 日吉神社

右に 真正寺 延命地蔵を祀る

集落内の坂を下っていきます、静かな山里の集落です

五位川に架かる橋を渡ると疋田地区に入ります

すぐ先で左からの161号線が合流します

合流する左角に看板

追分宿を抜けたところから振り返る

合流点から数十m先右に入る道がありますので,国道と分かれ右に入ります

正面に湖西線は塩津駅で北陸本線に変わった、新疋田駅がログハウスの駅舎。この後、7㎞ほどの道のり歩けそうだが、敦賀市内は見て回る時間がないけど仕方がない

旧道は駅舎の向こう側になるので構内の横を渡る

駅の東側の復活した旧道を北へ

左の線路に沿って進みます

現在道路を改修中でした数年後は景色も変わるだろう

北陸線のガードを潜ってきた161号線に出ます

161号線を横断して疋田地区に入ります

 疋田区の案内板が立てられています旧道に入るとすぐ分岐した道がありますが右を進みます

右に進むと間もなく左の岩の上に、小さな屋根に覆われた 南無阿弥陀仏碑
延享四年(1747)、集落の安穏と往来の安全を祈願したもの

その先、左の石段を上っていくと広い公園があります

疋檀城跡
文明年間(1469~87)に朝倉氏の将、疋檀対馬守久保によって築かれた。1570年織田信長の越前攻めの際に落城したが、修復を加え桐野三郎右衛門尉らと守っていたが、天正元年(1573)八月再度信長の越前進撃により、刀根坂の戦いで朝倉方が破れ、城主疋檀次郎三郎は討死、城も破却された。今も石垣や壕跡の一部が名残を留めている(説明文より)

疋田宿(ひきだ)
城跡の下に続く集落はかつての疋田宿の集落です。江戸時代には宿駅として賑わい、小浜藩酒井氏の本陣も置かれ、
高札場や一里塚もあった。集落の中を流れる、舟川は、敦賀から琵琶湖北端までを結ぶ計画であった、運河の遺構である舟川(敦賀運河)が今も疋田の宿場集落内を流れる

 左に 改廣院

お寺の前横に
舟川の舟溜跡
川幅九尺(約2.8m)の舟川に川舟が運航したが、狭い舟川には二艘の平航はできず、三艘ほどが一列となって航行した、この舟溜は舟川の終着点で、約四間に十間の広さ(40坪・133平方米)があり、周囲が石垣で固められていた。敦賀を出発し、疋田の舟川を曳き上げられてきた川舟は、ここで上り荷(米など)を降ろし、下り荷(茶など)に積み替えて敦賀に戻っていった。(説明文より)
疋田から小屋川に通ずるこの舟川も、文化13年(1816)に竣工したが、天保5年馬借座の訴訟で廃止された。今も流れるこの疎水は、舟川遺構を「水と史の回廊」として整備改修したものである。
前述したように、琵琶湖の北より深坂山を開削して、敦賀へ疎水を通す企画は古くからあり、平清盛が重盛に命じ着工した跡が深坂峠に残ると伝えられている。近世初頭にも敦賀を領した大谷吉継も計画を立て、また河村瑞賢も試みたという。
京都の商人田中四郎左衛門、寛文9年(1669)琵琶湖疎水計画の書類・絵図を敦賀町奉行所に提出した、元禄9年(1696)にも企画するが、郡内の庄屋の人々の反対により、計画が中止となる。
その後、日本海沿岸に異国船の出没に対し京都の糧道確保のため、文化13年に琵琶湖疎水計画が幕府・藩の手によって具体化し、翌年3月、小浜藩家老三浦勘解由左衛門を普請奉行として、先ず小屋川と疋田間の舟川工事が開始され、4ヶ月後に完成した

宿の中心当たりに 常夜灯 右から 塩津街道 が合流し敦賀まで重複します

 右の塩津街道(時間があれば塩津街道の項も参照してください)

合流地点から振り返ったところです、本陣・旅籠等の建物遺構は残っていませんが、十分宿場の情緒を味わえます

今では川幅は狭くなっていますが、舟川に沿って進みます

左に 真宗西徳寺

宿の西北端で右から、国道8号線との間の集落内を通ってきた道が合流します。合流点を振りかえる

小さな  が祀られています

 祠のすぐ先、右から国道8号線が合流します

 地下道を潜り8号線を向こう側に出ます

国道を潜り旧道を左斜めに進みます

笙の川沿いを少し進むと右に架かる市橋を渡ります。橋の先T字路で左に折れます

市橋地区に入ります

市橋から笙の川の景色

左に古民芸若狭屋の前を進みます

 左の市橋公会堂の街道挟んだ向かいに 

市橋地区を進みます

やがて道は分岐しているので右の旧道に入ります

右に入った旧道

右に 常夜灯二基と石仏 その前も分岐していますが右真っ直ぐの道

150m程先で左から分岐した道が合流します

合流したところを振り返る、向かって左を来ました

合流から130m程先右に 日吉神社

境内の スタジイの大木

神社のすぐ先右の 

市橋地区から小河口地区に入ります、正面左に8号線の敦賀バイパスの小河口トンネルが見えてきます。左は8号線等の道路改修により整備されている

道はその先で小河川を渡り、トンネル入り口の東側、小河第2交差点に突当り左に折れて8号線がトンネルに入る高架下を潜ります

小河第2交差点の右を見ると、見事な大木が立っています

交差点を左に折れて、トンネルに入る8号線の高架下を潜ると、すぐ又、8号線の小河交差点に突当り右に折れます

歩道がないので注意しながら進み、北陸線のガードを潜ります

ガードを潜った右に動乱の幕末期 郷土を守った 農兵隊の鳩原水害記念碑 が建っている

慶応二年八月、敦賀藩の詰所で警備中の農兵隊が裏山が崩れ17名が犠牲になった、その慰霊碑である

鳩原バス停左の笙の川に沿って進みます

北陸本線が8号線の高架下を抜けていきます。右に北陸線と凄く高い若狭自動車道の高架、私は高度恐怖症だからあのような高いような高架道は車で走れないだろうな

高架を潜り100m程先で8号線を左に分け右の旧道に入ります。この辺りは道口地区です

右に入るのが旧道で、道口集落にはいる
道口宿 敦賀に一番近い小さな宿場

集落内から振り返ったところです

道口の街並み、道口は若狭・敦賀・越前・三方への分岐点で 「三ノ口」 と呼ばれて、江戸時代には宿駅が置かれた交通の要衝で、古くからの道で 「愛発関」 が置かれていたとも伝わる

このすぐ先の車庫の建物の手前右に入ると、木の芽峠を越えて北国街道の今庄宿 へ通じていた。今庄までが西近江路という資料もあります。また真っ直ぐの道は、敦賀への道で七里半街道・塩津街道が重複します

私は敦賀へ向かいます、何時か木の芽峠越えを歩いてみたい。街道は真っ直ぐ集落を北へ進みます

 分岐から100m余り進むと、右に分岐する道があり、少し右に入りJR北陸本線を越えると

 志比前神社

街道の分岐に戻り道口の街並みを振り返る

その先200m余り進むと、JR小浜線の道ノ口踏切を渡ります

踏切から250m程先で、左からの8号線に合流します。手前右に中郷郵便局があります

8号線に合流して重複しながら歩きます。歩道橋の左は、中郷小学校や岡山公園があります

中央分離帯のある金山バイパスの岡山交差点に出ます、交差点を横断しますが、この先の旧道ははっきりわかりません。私なりに歩いて進みます。

暫く歩くと分岐してます、右に8号線を分け左の道を入ります

左の旧道を進んでいきます

分岐から250m程進むと左に、長沢区公会堂があり、その前に 若越八十八ヶ所第拾七番の石

150m程先で、広大な東洋紡の敦賀工場に突きあたり、旧道は消失しています。かつては東洋紡の工場の中を通っていたのではないだろうか

数十m手前の道を止む無く右に折れます

 170m程進むと8号線に突当り左に折れます

 8号線に沿って、左に広大な東洋紡の工場を見ながら進みます

東洋紡の工場が切れるところで木ノ芽橋南交差点に出ます。交差点を横断して、木ノ芽川に架かる木ノ芽橋を渡ります

橋から左(西)の景色で、左側一帯は東洋紡の工場南側の河川

木ノ芽川は二川に平行しており、南側は狭く、北側は広くなっている北側の河川

 橋を渡り左へ、川に沿って堤防を歩き、旧道が消失した対岸の東洋紡の工場を見る

300m弱先で堤防から右に下り北に進みます、旧道に沿って津内緑地を北へ進む。右の建物は東洋紡の社宅

右には、立派な敦賀市福祉総合センターあいあいプラザ・敦賀市デイサービスセンター・市立図書館があります

川の堤防から300m程で信号交差点に出て横断します

交差点から300m程先で右の細い道に右斜めに入り、50m先でT字路の車道に出ますので右に折れます

右に折れて数十mでさらに左に折れます。左に折れずに、この道を真っ直ぐ進むと白銀交差点に出ます。白銀交差点を起点にこの車道を逆に西に進む街道は 丹後街道 で舞鶴への街道です、何時か歩いてみたい街道です。

左に折れて津内町を北に進みます

 左に折れて200m程先で分岐しますが左の道を進みます

さらに150m程先の交差点を横断して

200m程先の車道で 西近江路・七里半街道・塩津街道の終点 とします。ここは神楽町です

 終点の左の道

終点の右の道

 右角に 真宗萬徳寺

街道終点が何処なのかはっきりわかりませんので、一応ここで完歩とします。
もしご存知の方は是非ご教示ください。
敦賀市街地にある、沢山の史跡を回りたいのですが、時間がないので改めて機会をつくって是非もう一度来ます。敦賀駅へ移動します。

駅への途中に 神明神社 がありました

JR敦賀駅前広場

西近江路完歩

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